ナツノウミ〜結子SIDE〜

「ママ、ハルちゃんがね……夏休み、海に行くんだって……」

夏海が消え入りそうな声で言う。

「そっかー……」

聖がこの世界からログアウトしてしまってから、つまり夏海が産まれてから8年、文字通り馬車馬のように働いて二人の生活を守ってきた。
友人知人、親戚や聖のお母さんまでサポートしてくれたおかげでなんとか転げ落ちずに済んだのは僥倖だったけれど、スキルも資格も学歴もない女が「まっとうな」生活を維持するのは、やはり大変だ。
トリプルワークの掛け持ちに汲々とする日々の中、一番大切な存在を等閑にしていた。

「うん、じゃあ私達も海、行こっか♪」

勿論簡単な話ではない。
午前中〜ランチタイム終了まで働いているレストランと夕方までのスーパーの仕事、夜働いているバー、全ての休暇をもらうことは難しい。
しかも夏休み。書き入れ時だ。
けれどやっぱり、夏海にはちゃんと教えておきたい。
聖の事、聖と私の事。夏海が産まれてくる前の、私達のストーリィを。

「いいからいいから、たまには楽しんできなさいって」

案ずるより産むが易し。思い悩んだのが思い過ごしであったかのように、昼の職場も、最後に休日の打診をしたバーのマスターも、快くOKをくれた。丸一日のお休みなんて何年ぶりだろう。
前日にしっかり洗車をしておいた真っ赤なアルトはピカピカだ。
職場のスーパーで貰ってきた見切り品のハムと頂き物の卵で、夏海とサンドイッチを作る。キッチンに二人で立つのは、多分今日が初めてだ。
バター、マヨネーズ、キュウリ、ハム。初めての割に器用に夏海が具材を並べていくのを横目にオムレツを焼く。私の玉子サンドは「焼き」だ。ふんわり焼いた卵をパンに挟んで半分に切る。うん、理想的な断面だ。
割と近所なのに一度も入ったことのない高速道路の入口から、一路、海へ向かう。私は夏海と子供のようにきゃあきゃあとはしゃぎながら、アルトのアクセルを踏む。
幾つかのICを過ぎ、休憩に入ったSAを過ぎて下道に降りると、いきなり左手に海が広がる。
銀の鱗のようにキラキラと輝く水面に、夏海は溜息をつく。少しだけ開けたウィンドウから入る潮風が幸福な記憶を喚起させ、私の鼻をツンとさせる。
目指すはあの砂浜。あの日、私達が居たあの砂浜……あった!
私と聖の、秘密の場所。
キュロットを穿いた素足の夏海が、恐る恐る波に触れる。誰も居ないこの場所。波の音しか聞こえない。

さぁー
さぁー

あの日聞いた波音。そして、一緒に聞いた……聖の胸の鼓動。
熱い吐息も、私を抱きしめた力強い腕の感触も、全部全部覚えてる。
かわらぬ景色に、ただ、君だけが居ない……こんなに愛しい君は、もう永遠に喪われてしまった。
不思議な事に、悲しくはない。
麻痺してしまった、というのでもない。私は聖の存在を、今でも感じている。聖は肉体の衡から放たれたことで、より一層大きな愛で私達を包んでいると感じている。
はらり、と、私の頬を伝う水の感触があった。

「ママ!どうしたの?どこか痛いの?」

違う。違うの夏海……ママはね、嬉しいんだ。
すごく、すごく……愛しくて苦しい程。

「違うよ、夏海……ママね、嬉しいの。ママね、パパのこと思い出してたの」
「パパって、どんな人だったの?」
「素敵な人よ。世界一素敵な人」
「いまでもパパのこと好き?」
「うん、大好き。パパとママはね、この海で出逢って、恋して、そして夏海が産まれたの。夏海は、パパがママにくれた、最高のプレゼントなのよ。だから夏の海で夏海。私達の愛の証」

そう、あなたは私達の愛の証。聖が私に託した、かけがえのない宝石。

「ママ、なんだか可愛いね♪」

気づかぬうちに、随分おしゃまになっていた娘。年下のクセに私を子供扱いしていたあなたにそっくり。小さな肩越しにあなたが笑いかけているようで、私は多分ちょっと照れたような笑顔で、こう答える。

「えへへ、ありがと♡」

さあ、今こそ伝えよう。聖と私と夏海の、これまでのストーリィを。そして紡いでいこう。聖、あなたも一緒にね。

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